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悲劇からの絶望へ階段

 祖母の死をいつまでも引きずるわけにもいかない。

しかし、

僕、父、祖母というギリギリのバランスと均衡で成り立っていた

今までの生活も、これで父と僕との2人暮らしとういう

いったいどうなってしまうのかという不安は大きかった。

 高齢だった祖母とはいえ、色んな意味でそれだけ我が家にとって

精神的支えだったこともあり、ある意味象徴でもあった。

 特にこんな精神疾患を抱え、友人知人も切ってしまった僕に

とっては唯一の話し相手でもあったし、そんな僕ですら頼りにして

くれる事が自分にとって人の役に立っているという

ささやかな生き甲斐でもありました。

 大した世間話をする訳でもなく、ましてや冗談話なんて

まず交わさない父との暮らしは想像もつきませんでしたが、

それでも親子、何とかやっていくしかない。

おそらくまあ、お互い干渉する事もなく淡々とした日々になるだろう。

 でもむしろお互い無理をせずしばらくはそのほうが

かえっていいのかもしれない。

祖母の死は我が家にとって3つの大きな意味があった。

先に述べたように、3人で保てていたバランスを失うという事。

父と子の2人暮らしになるという大きな課題を残す事。

そして、

僕個人の病気がこれら不安によって確実に悪化するという事。

 天寿をまっとうした家族の死や、生活の変化は、

それなりに時が解決してくれる面もある。

ただし、病気は時が解決してくれるなんて甘いものじゃない。

 少しでも精神的に不安やストレスをほんのわずかでも

与えないようにビクビクして過ごして生きてきた当時の僕にとっては

この出来事は「泣きっ面に蜂」なんてレベルの物ではなく、

足が不自由の人を崖から転げ落とすほどの、

取り返しのつかない事になるくらいのダメージでした。

 頭ではあれをしなきゃ、これをしなきゃといくら前向きに考えても、

どうしても動けず、身体はひどい体調不良が朝から晩までで、

そこにさらに発作も襲ってくるので、起きてる間中いつか気が狂う

のではないかという恐怖の毎日で、徐々に単純な文章や計算すら

頭の中で整理できなくなるのを感じるようになりました。

「これがうつ病になっていく過程なんだな」と、

冷静に、客観的に、そして覚悟を決めだすようになりました。

いつか「心」を失う可能性があると自身で自覚する恐怖は

想像を絶するものがあります。

 例えがあってるかわかりませんが、徐々に認知症になり、

ついにはすべての記憶を失うと、理性があるうちに告知されるような

そんな恐怖感です。

 こんな病気に対して理解が全く出来ない父ですが、

それでも通院などの事務的なサポートはしてくれるのが

せめてもの唯一の救いであり、命綱でもある。

 しかし生活のサポートや病気の理解者が周りにいないというのは

こういった精神的な病気の治療にとって、決定的にマイナスというか

かなり無謀で、医者次第では絶望的とも言う医者もいる。

それは自分でも嫌というほど実感しているが、

かといって、「誰か僕の世話や手助けをしてくれませんか?」

なんて嘆いても叶うようなものではないので、諦めるしかない。

 まあ、そんな状況でも畑仕事はもう始まりつつある時期。

何としても、少しでも、そして這いつくばってでもやらねば、

まるで死んだ祖母を言い訳にしてサボってるようで、

祖母も浮かばれないし自分をも責めてしまう。

 父もそれなりに悲しみや不安は残っているようでしたが、

寿命で大往生した祖母なので、強烈なショックはそこまでは

なく、気持ちを切り替えつつあるようでした。

なので畑仕事にもすぐに復帰してくれたので、僕がまだまともに

動けない中で、単純作業や軽作業は何とか父が開始してくれ、

僕もせめて健康だった頃の20%でもいいから動けるように

なればと願い、過ごし、祈る日々でした。

 しかし、介護疲れの残りか、僕の腰の痛みは治ったものの、

父の腰の痛みはまだ尾を引いてるらしく、

あまり無理はしないように忠告していました。

 4月に入ると、僕の仕事である育苗作業がピークに入ってきます。

育苗ハウスは裏庭にあるので、外出が苦痛になりつつある僕でも

裏庭なら体調は悪くても、精神的にはいくぶん気が楽でしたが

それでも毎朝の換気管理は一日も欠かせないので、

特に朝がひどく体調が悪くて起きれない僕のかわりに

朝が得意な父がサポートする感じでなんとかやってました。

 僕の病気はいつ良くなるのか全く見当もつかないものなので、

6月頃から始まる、一日も休めなくなる農繁期に備え、父に

「今のうちに腰を治しておきなよ」

と、病院に行くように言い聞かせたのもこの頃でした。

まあ、整形外科で腰のレントゲンを撮ってシップと軽い痛み止めが

出されるような程度でした。

 腰痛は長期戦になる事も多いので、早めに原因を見つけ、

早めに治療した方がいい。

接骨院でマッサージを受けたり、地元のクリニックにも行ったり

させました。

 しかしそんな簡単に治るようなものでもなく、

特に腰を曲げたり、特定の動きをした時に痛むので、

どうもヘルニアくさい。

ヘルニアだったら、ちまちま療養しても悪化する可能性が高いので

「いっそ軽度のうちにさっさと手術等したほうがいい」

近所の人でヘルニア経験者の話を聞いたり、僕もネットなどで

調べたりしましたが、やっぱそのほうが良いだろうという事で

父にも手術なり、なんとか注射とか、色々説明しました。

「今治せば、夏には間に合うからそうすれば?」

「このままシップ貼ってるだけじゃらちあかないし、もし悪化して

親父が動けなくなったら、今の俺じゃあどこまで手助けできるか、

正直自信もない。もうだいぶ辛そうだし、

このままお互い病気じゃ共倒れになってしまうよ・・・。」

「そりゃまあその通りだな。忙しくなる前に、

さっさと治療して治るならそうするか・・・。」

そういう流れに決まり、いつものように地元のクリニックへ行き、

帰ってきた父がこう話した。

腰の痛みは相変わらずよくならず、心なしか前より酷そうだった。

どういう流れでそうなったのかはよくわからないが、

何かしらそこで検査をした結果、ちょっと引っかかる事が医者に

あったらしく、念のためにせっかくだから市民病院で精密検査を

受ける事になった。

 祖父の頃からお世話になってる地元の個人医院なので、

こうした世話や手続きはものすごく早く、ありがたい。

電話一本で3日後に市民病院での精密検査の予約を

あっという間に入れてくれた。

 4月21日ごろだったか、さっそく市民病院に向かった父。

検査の結果はすぐに出ないが、その2日後に一泊の検査入院、

さらにその後3回の検査予約を入れられて帰ってきた。

 最終的な診断結果は5月8日。

相変わらず腰が痛い腰が痛いという日々でしたが、

それ以外は特に何も無かったものの、痛みのせいでだんだん

気がめいっているのか、食欲も行動意欲も少しづつ落ちていった。

 僕は毎日祖母の介護で、祖母の些細な変化を注意しながら

生活してきたので、余り口で物を語らない父でも、その些細な

変化は自然と目に入るようになっていきました。

 4月に入ってから21日に市民病院に行くまでの腰の痛みの

進行具合と、その後の痛みの進行具合がかなり違う。

まあ、本人も勝手な自己判断でリハビリのつもりで無理に散歩とか

してたから、それも原因であるかと思いそれも辞めさせた。

ただ、

何気ないしぐさ、歩き方、食事量の微妙な変化、、、、

観察すればするほど、

日々悪化しているのは毎日一緒に生活してれば嫌でもわかる。

 
 そんな状態なのに、病院も病院だ。

ひどい腰痛なのに、わずか2週間で何回通院させるんだと。。
 
一度の通院は1時間待たされて、数分検査をし、

結果が出るまた3時間後に診察室に来てくださいという。。

その間休ませてくれる場所を与えてくれるわけでもなく、

すでにまるで老人のような歩き方しか出来なくなっていた

父にはホント可哀想なものだった。

まともに歩けず、ロクに食事もとれず衰弱し始めてる状態。

そこへ度重なる苦しい検査と待機を何度もさせるわけだから、

「何故入院させてあげないんだ?」という憤りも感じた。

政治家とか有力者とか、些細な事で簡単に入院させるくせに。

 通院・検査疲れで、帰宅するたびに父はグッタリ状態で、

すぐに床に入るようになった。

 そしてそんな父に何もしてあげられない自分が

悔しくて・腹が立って・情けなくて仕方なかった・・・。

本来なら自分が病院に連れて行って、付き添い、

車椅子にでも乗せてあげて押してやれば、幾分父も楽だったろう。

 すでに車の運転すら発作の対象になっており、ましてや

病院へ行けば確実に即座に発作が出るまでになっていたので、

そんな場所に何時間も付き添えば、自分がどうなるか

想像もつかない。逆に迷惑をかけてしまうだろう。

 自分の病気で自分の苦しみを呪った事は何度もあったが、

目の前の家族一人に何も役に立てないという事を

これほど呪い、みじめと思った事はなかった・・・。

 せめて家の中でのやれるだけのサポートしか出来る事はなく、

栄養のある食事を考えて作ったり、転倒しないかとか、

常に注意して見守って、検査の結果が出るのを待つしかなった。

 検査が出るまでのわずか2週間は苦しいほどとても長く感じた。

病気慣れしてる自分とは違い、父は日に日に痛みを増す腰や

それに対して冷静にどうしたらいいのかと、頭の整理が

追いついてないようだった。

そしてあまり自分の事を語る人でもないので、

そんな父を毎日見ているのがつらかった。。

 「早く・・・痛み止めでも何でもいいから薬を出してくれ!」

 「早く・・・衰弱してしまった父に点滴を打ってくれ・・!」

 「そして何より、早く入院させて治療をしてあげてくれ・・・!!!」

もう、毎日毎日そればっかり祈ってた。。

病人が病人を看る。

病人の僕が父を気遣い、病人の父もまた僕を気遣う。

強烈な腰痛の痛みで苦しみ続ける父。

不安や心配から持病が悪化してひどい発作にのたうち回る自分。

そんな残酷で最悪の状態で、父も僕も、限界だった。

 そしてそんな状態の中で、僕は薄々感じていた・・・。

毎日自宅看病すればするほど、

その腰痛がただの腰痛ではないだろうという事を。。。。

 5月8日。

すべての検査の結果が出る日。

兄夫婦たちも駆けつけ、一緒に連れて行ってもらった。

父はもう車いす無しでは歩けないほどになっていた。

 兄と父は仲が悪い訳ではないが、兄も県外で所帯をもって

独立してるという事もあり、そして感受性の強い僕と比べ、

あまり感情を表に出さず物事を冷静に判断出来る兄は、どことなく

父に似ている部分もある。

 根はおしゃべりの僕ですら、寡黙な父との会話はやや困難なので、

そんな兄と父では、僕以上に昔も今もワイワイ話すような感じでは無く

今では年に2,3回顔を合わせる程度なので、

人によっては疎遠とか、どこか他人行儀な関係に見えるかも

しれないが、

亡くなった祖母と叔父たちとの関係もそんな感じだったので、

それはそれで一つの親子の形だろう。

 そんなどこか未だにお互いよそよそしく、どこか距離を置いてる

ような感じの兄と父を今まで見てきた僕は、

この日、車椅子に乗った父を、今までのそれなりに空白じみた

時の流れがまるで無かったように、後ろからしっかり支えてる兄を見て

何とも言えない温かい感情が胸に込み上げてきたのを覚えてる。

 
 診断結果が出る大事な日というのに、そして車椅子に

乗ってるだけでもかなり苦しいであろう父なのに、

予約時間から平気で2時間も待たされた事にさすがにイライラした。

そして本来は、患者や親族に病名などをしっかり伝える場合、

そういった部屋が普通はあるのだが、

せまっ苦しい普通の診察室にぎゅうぎゅう詰めで通された。

  
そして、診察室に通されると、

父は医師に向かって突然僕らを一人づつ紹介し始めた。

「こっちが長男・・・。その奥さん。・・・でこっちが次男で・・」と。

上手く言えませんが、とても不思議な気持ちだった。

誰かに対して、自分から家族を紹介するとか、

そういう事を自分から語る父を見た事が無かったからだ。。。

 今思えば、僕と兄が兄弟そろって父をサポートするなんて事は

今までなかったので、何かしら父なりに込み上げた感情が

あったのかもしれない。。。

 世の中・・・。

 悪い予感は悪い予想に変わり、

予想は徐々に自己判断で確信へと向かい、

確信は第三者によって確定となり、

しかしながらその確定を、人は一旦頭の中で否定した後、

それが現実だと受け止める事になる。

肺がんの全身転移   

ステージは4

 
手の施しようがない末期がんだった。 

・・・兄も父も、そして僕も、どことなく予想と覚悟はしてた・・・。

腰の痛みが、がんの転移によるものではないだろうか?と。。

しかし、ステージ4の末期がんとまでは考えてはいなかった。

もしも最悪がんだったら、どこの病院でどう治療していこうかと、

兄とも事前に相談していたが、手術も出来ないほどの末期だとは

想像も想定もしていなかった・・・・。

覚悟していた内容を上回る事になる残酷な結果は、

ショックの一言では語れない・・・。


 肺がんのステージ4は死の宣告に等しい。

 父のがんは肺から始まり、すでに脳に30か所以上転移、

腰の痛みはあらゆる転移箇所の一部にすぎなかった・・・。

 今後について医師が何やら説明をしていたが、

何を話していたのか、抜け殻になってしまった僕は覚えていない・・。

兄はしっかりと説明を聞き、

そして父は取り乱すことなく、一言一言、言葉を選んで

まるで自分に言い聞かせるように

ゆっくり話していたことだけ覚えている。

 
 翌日の入院が決まり、

あらゆる手続きを兄夫婦が早急にやってくれた。

自分には手伝う事も、現実を受け止める事も何も出来なかった。。。

家に戻り、明日の段取りを整え、兄たちは一旦準備で帰り、

父と二人きりになり、夜を迎えた。

 互いに何を話していいかわからなかった・・・。

そして何を話したのかもはっきり覚えていない。

綺麗事を語る間柄でもなく、余計な励ましを僕が語る事も

そういった事を言われる事も、本意じゃない事は互いにわかってた。

 こんな会話はおかしいかもしれないが、

父自身が、「自分はもう死ぬ」と言った事と、

僕自身が、「親父はもう死んじゃうんだよな・・。」

そんな会話をした気がする。。

お互い嘘偽りない本音であり、

覚悟であり、

現実を受け止める手段であり、

僕と父との不器用な愛情表現だったのかもしれない。

 そして父は精一杯の力で、2階の自室へとこもった。

その間、自分は何をしていたのだろう・・・。

たくさんの事を考え、そして何一つ答えが出ない夜だった気がする。

 
 その後、自室にこもっていた父に呼ばれた。

満身創痍ですでに肉体的にも限界の身体で、

父はいつ何があってもいいように、必死で大事な書類を

整理してるようだった・・・。

 そして自室に呼んだ僕に、

うつろ気味の表情で這いつくばって、一冊の書類を僕に渡した。

「・・・・これを・・・渡しとくから・・・ちゃんと持ってなさい・・・」と。

生命保険の書類だった。

 こんなボロボロの状態でそれを渡された瞬間、

それまで抑えてた感情や我慢してた感情、

もう何もかもがとめどなく溢れて溢れて、

声を上げて泣き崩れてどうしようもなかった・・・・。

「・・・・・おれは・・・・おれは・・・何も・・・

・・・何もしてあげれない・・・・・。

すまない・・本当に・・・・・・すまない・・・・・・自分が情けない・・・」

それしか言えなかった。。。

「病気はどうしようもない。お前が悪いわけじゃない。

いつまでもくよくよしても仕方ない。

まだお前にはこれからがあるんだから・・・」

父は一言、そう語った・・。

 
 ・・・・それが、

祖母が亡くなってからわずか3カ月間の

僕と父との2人暮らしの終焉を告げる日であり、

この家で生まれてからずっと何十年も生きてきた父と、

その父の元で生まれ育った僕とが

この家で一緒に過ごす最後の夜だった。。。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (8件)

  • ご自身のお身体の具合も相当苦しそうな中、おばあさまの介護と悲しいお見送り。
    それだけでも十分大変だったと思いますし、ゆっくり休んで頂きたいという気持ちでしたが、
    まさかその後このような展開になるとは想像も出来なかったです。
    驚きすぎて言葉が見つかりません。

  • ブログ再開の記事からこの記事まで一連の流れを辿ったら、色んな事がつながって鳥肌が立った・・・・・

  • お婆ちゃんの事があってからまた何かあったんだろうと気にはなっていました。今回の記事を読み始めてお父さんがヘルニアになって大変な事になったんだ・・・と、てっきり最初は思っていましたが、読み進むにつれ固まってしまいました。ブログ更新再開してここまでの記事を書くのには相当な忍耐と精神力がいったと思います。今まで農業の記事や面白い出来事を何気なくなるほど~と読んでいましたが、こういった人の命というテーマの記事も、とても伝わりやすく書いて頂き考えさせられるものがあります。今後も記事を楽しみにしてます、というのは今は大変不謹慎かと思いますが、これからも読んでいきたいブログです。自分や自分の家族を見つめ直す思いでいっぱいです。

  • 自身のお身体大丈夫ですか?
    普通に健康な人でも相当ショック過ぎますよ

    私も以前精神的に病んだことがありますが、こばじろうさんと同じ状況を想像したらとてもじゃないけど心が折れます・・・。
    まさか立て続けにこんなことが起きてたとは思いもよりませんでした…。

  • あー、なんと。
    歳を重ねればいつかあり得ることとはいえ、立て続けではしんどいですね。

    自分も伯父さんが発見時に末期がんでしたが、同じような進行だったと聞きました。自営業だと定期的な検診を受けない人が多いようですから、ちょっと前まで元気だったのにみるみる弱っていく感じになるようで。癌はぎりぎりまで元気でいられるとも言えるのでしょうが。

    畑と向き合うのが気が紛れるとは思うのですが、こばじろうさんご自身もしんどい状況ということで…あまり無理のないようご自愛ください。

  • はじめまして。
    私もパニック障害を持っています。
    毎日つらくて仕方ないのですが、でもこばじろうさんほどではないんだな~と、同じ病気でももっとツライ人がいるんだと思いました。
    そんな程度の私でも旦那や子供たちの支えで何とかギリギリの日々を送っています。

    もしもこばじろうさんのように、こんな病気を抱えたまま、家族が病気になったり一人ぼっちになったらと考えると多分私は生きていけないかもしれません。
    でもこばじろうさんは、そのまさかの状況なんですよね・・・・・・・

    この病気で一人暮らしなんて私には想像を絶するものがありますが、こばじろうさんはこの先一人暮らしになっちゃうのかすごく心配です。

    可哀想なんて偉そうに言える立場ではないですが、相当おつらい状況だと思います。

    なんとか少しでも希望が出てくる事を祈っています。

    うまく言葉が出てこず他人事みたいな言い方でスミマセン・・・・

  • はじめまして。
    カブトムシの記事から読み始め、どうなるのかなと思っていたら
    大変な事になっていたのですね。
    あせらず、気負わず、ゆっくりと生きていきましょう!

  • コメント沢山ありがとうございます。
    心にしみるコメントありがとうございます。ですが色々考えても言葉や文章の整理に詰まり、何を言っていいのかわかりません。

    今回は個別の返答を返信できなくて申し訳ございませんが、皆さんの温かいお言葉大変ありがとうございます。少しづつ頭を整理していつかまたご期待に答えれるよう頑張りますので、よろしくお願いします。

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